坂井・あわらを巡る歴史遺産に出会う旅へ。
現存十二天守のひとつの城、
真宗王国北陸の中心拠点となった吉崎御坊跡、
北前船で栄華を極めた三国湊町。東尋坊を囲むように点在する至極の歴史スポットを巡る旅を愉しもう。遺された史跡たちは、知的な探求する心を満たす大人のための博物館。
現存十二天守のひとつの城、
真宗王国北陸の中心拠点となった吉崎御坊跡、
北前船で栄華を極めた三国湊町。東尋坊を囲むように点在する至極の歴史スポットを巡る旅を愉しもう。遺された史跡たちは、知的な探求する心を満たす大人のための博物館。
現存十二天守のひとつ、平山城の丸岡城。一階建ての建物の上に望楼を乗せた、二層三階の望楼型天守です。その構造や造り方はまさしく古式で、質素。高さ12.6メートルの建物に、鉄砲狭間や石落としといった、かつての城が持つ構造や装飾など、細部を見て楽しめるのも、丸岡城の魅力です。
丸岡城天守最大の見どころは、石垣の屋根と、天守入口への直接繋がれた石階段です。野面積みの石垣の上に、二層三階の望楼型の天守が建つそのクラシカルな佇まい。そこに石瓦が装飾美を備えて屋根を覆い、天守と一体化した石段が、どこか神殿にも似たフォルムを描いて見る者を圧倒します。
1948年。丸岡の城下町は、この地を震源地とする直下型地震によって多くが失われました。しかし、天守の南方には城下町としての歴史を繋ぐ神社仏閣が残されています。天守から南へ歩くと國神神社があり、丸岡藩3代藩主本多重昭が奉納したとされる宝剣など、本多家、有馬家からの奉納品が社宝として保存されています。
江戸末期、船主たちが保有した渡海船は64隻を数え、三国湊の海運業は絶頂期を迎えます。内田家や森田家といった名だたる豪商を生み、文学や工芸の文化を開花させていきました。やがて物流の中心が鉄道へ移行すると、三国湊の商港としての役割も終焉を迎えますが、豪商たちが闊歩して築いた富の残影は、はっきりとこの町に残されています。廻船業からの業種転換に成功した豪商もあり、森田家は銀行業を営んで、意匠を凝らした近代建築を残し、この港町をそぞろ歩く人々をもてなし続けています。
北前船が三国湊にもたらした富は、寺社も大いに栄えさせました。今も観音堂をはじめ、中世当時の姿を残しているのが瀧谷寺です。柴田勝家奇進と伝わる山門が迎え、本堂の欄間には山田鬼斎が刻んだ龍の彫刻、その裏手には築山式池泉庭園の見事さに心奪われます。宝物殿には国宝の「金剛宝相華文磬」が佇み、春と秋にだけ展示が許された室町時代の「天之図」は、この名刹の気高さを知らしめてくれます。寺院群をめぐるもまた、趣のある三国湊の歴史散策です。
この地の歴史に刻まれたさらなる顔が、遊郭街です。地元に伝わる民謡の三国節には、「酒は酒屋で 濃茶は茶屋で 三国小女郎は松ヶ下」という一節もあります。三国湊の遊女は、教養の高さで知られました。その教養を身に付けさせたのが、真宗寺院 永正寺の住職です。この寺は、文人墨客を招いて河口の景色を愛でながらの句会が催されたことでも知られ、遊女にして俳人であった哥川の墓があります。遊郭は昭和30年頃まで続き、三国湊には、かつて遊里のあった場所としての記憶を刻む「思案橋」と「見返り橋」という2つの橋が残されています。
1415年、蓮如は京都東山の大谷本願寺で生まれます。当時の本願寺は、日常の食事さえままならない一貧寺でした。父の存如が本願寺7世門主に就くと、蓮如は父を支えて庶民が理解しやすい説法の内容と方法を生み出しました。三河、関東、越前、加賀へと説法の旅は繰り返され、蓮如が門主を継ぐと、ますます本願寺への参詣者は増えていきます。ところがそれを快く思わない比叡山門徒からの襲撃を受け、本願寺は破却されてしまいます。蓮如は京都を追われ、浄土真宗再興の地として定めたのが吉崎でした。道場が開かれるやいなや、吉崎にはまたたくまに坊舎が立ち並び、数多くの参詣者で賑わう一大巡礼地となったのです。
吉崎には「嫁威肉付面」が、その伝説とともに存在する。蓮如上人の訪れとともに真宗の教えが瞬く間に広がる吉崎近くに住む男の妻が、蓮如上人の教えを聴くために熱心に吉崎に通っていた。これに腹を立てた姑が鬼面をかぶって夜道で待ち伏せし、「われは白山権現の使いなり。吉崎参りをやめよ」と脅し、嫁は逃げ帰った。ところが姑がかぶった面は顔から離れず、蓮如上人のもとで念仏を唱えると、顔の一部がこびりついたまま面が外れたとするストーリーである。白山信仰に代わり、真宗が広がっていく当時の北陸宗教事情を見事に想像させる物語がこうして残されている。
吉崎の御山にかつての建物はありませんが、ここには蓮如にまつわる魅惑のストーリーが残されています。その一つが御山の象徴として掲げられている高村光雲作の蓮如像で、銅像の原型は吉崎寺蔵の「蓮如上人御自家画像」をもとに1934年に建てられました。高村光雲は上野恩賜公園の西郷隆盛像や皇居前広場の楠木正成像を手掛けたことで知られています。戦時中、軍部によって幾度となく強制供出が企てられましたが、その度に事故が相次ぎ、誰も手出しできなくなったとの逸話が残されています。